2008年2月24日日曜日

ひな祭り





我が家のおひな様がお出ましになりました。
母が誕生した時に祖父が買ったそうで、今年は78回目のお祭りです。
むかしのおひな様は上品でいいお顔をされていますね。
いっしょに掛け軸のおひな様にも登場いただきました。

2008年1月7日月曜日

等伯の松林図屏風

ムンク展を見た後東京国立博物館へ。本館2階の国宝室へ直行、お目当ては長谷川等伯の『松林図屏風』です。(左隻 / 右隻
松林図屏風を見るのは今回で3回目かな(?)見る度にすごいなぁ~、とうなってしまいます。

遠目で見ると(屏風から5mくらい離れて)、湿った朝靄がまるで目の前を流れているように感じられるのに、すぐそばに寄って見ると松も靄も極めて大雑把にしか描いてない、驚きです。
松の枝は竹ぼうきでザッザッと描きなぐっただけに見えるし、松の幹は筆をスーッと描き下ろして墨がかすれていっただけに見える。靄の部分は墨がにじんでいるだけのようだし…
墨の濃淡だってアバウトな感じです。あまり考えずサッササッサ筆を走らせたように見える、そばで見ると下手クソに見えてしまう…

でも5m離れて見ると、そこに流れる空気が肌に伝わってくる、完璧です。どうしてこれが描けたのか本当に不思議です。目の前の画面に筆を走らせつつ、5m離れた画面を見ていたとしか考えられない…
このように描けるまでには、下絵を描いて描いて気の遠くなるようなシミュレーションを重ねたに違いありません。そして計算し尽くし一気に描き下ろす、気迫の瞬間芸です。

光の移ろいを画面に定着させようと悪戦苦闘したモネが、この空気の移ろいを見事に表現した絵をもし見て、これが自分より300年も前の日本で描かれたと聞いたらどんなに驚いたことか、そんなことを想像すると本当に愉快です。世界でも類のないほどアヴァンギャルドな絵だと思います。

この絵は是非実物で見てください。国宝室では14日までの展示です。常設なので600円でOKですし観覧者も多くなくゆっくり見られます。とってもお得です。

2008年1月6日日曜日

ムンク展

国立西洋美術館のムンク展に行ってきました。(展覧会は6日まで)
金曜日の午後でしたが、入場券窓口で10分ほど並び、会場は入場制限こそないものの2重3重の人波であふれかえってちょっとした通勤電車並の混雑、ムンクって人気あるんだなぁと再認識しました。

展覧会の案内によると今回の展示はムンクの作品の装飾性にスポットを当てたのが特色とか。<~のフリーズ>というくくりで章分けしてあって、メインで最も数が多いのは<生命のフリーズ>となっています。フリーズって凍りついてしまうこと?と思ってしまいましたが、調べてみると<frieze>、つまり日本流に言うと障壁画のことなんですね。
そう言われてみると、西洋では作品一つ一つを独立のものとして見ることがほとんどですが、日本ではふすまや屏風に描かれたものを一体として、その部屋の空間で見ることを昔からしてきました。
なんだ、ムンクが考えたことは日本人にとってはなじみの考え方じゃないかと気づきます。

で<生命のフリーズ>ですが、これはどこか具体的な空間を飾るものとして構想されたのではなく、人が生まれてから死ぬまでに起こる様々のこと、場面を次から次から絵にしていって、とりあえずアトリエの周りから壁からぐるりと取り囲んで置いてあったみたいです。
そして大量にある絵をどのように並べるかという構想スケッチを何枚も書いているのですから、少し笑えます。

出展されている作品をいくつか見てみましょう。
まず『不安』
有名な『叫び』と対をなす作品ですが、まず目に入ったのは人物ではなく赤くうねる空でした。ぼくはこの空を見て何の脈絡もなくオーロラを連想してしまいました。人よりよほど不気味です。ムンクにとって赤というのは大変シンボリックな色だと思います。血の色、たぎる情熱であり、流された血、死の色でもあります。赤く縁取られたフィヨルドの海も不気味です。

『声/夏の夜』今回ぼくが一番好きになった作品です。ムンク22才の時、恋に落ちた人妻をモデルに描いたそうです。この女性からは大変切羽つまった感情を感じます。ちょうどあらゆる色の光が混じると白くなるように、大声を上げて叫びたい張り裂けそうなあらゆる感情が混じって、コトリと音をたてるのもはばかられる凍りついた沈黙が支配しているようです。
木々は鉄格子のよう。恐ろしい… 背景の海だけ少し明るく、白い柱のように見えるのは海に反射している月影です。この白い月影は他の作品にしばしば現れるモチーフですが、登場の仕方を見るとこれは男女の官能、性愛のシンボルのように思えます。
またやはり他の作品を一緒に見て思うことは、海辺が生きていくうえで大変重要な場所だったということです。歌い踊って愛を確かめ、愛を交える場所だった。そして海を見つめ人生の思索にふける場所でもあった。ムンクにとって(ひょっとしてノルウェーの人にとっても)海と人生は深く結びついたものなのでしょう。

『赤い蔦』
実際に蔦がこんなに赤くなるかどうか知りませんが、これはやはり血塗られた家に見えます。何かおぞましい記憶が残る家なのでしょう。そしてこの家に比べ下のムンクの自画像(?)、ちょっとマヌケ顔じゃありませんか?
でもこのアンバランスさが妙に不安感をかきたてます。ムンクは幼いころ母親を亡くし、少年になったばかりで姉を亡くしています。2人とも結核だったそうです。この記憶がトラウマのような不安感となって、ムンクの心の奥底をいつも苦しめていた気がします。

『星月夜』
キンキンに凍てついた星月夜です。凍りついた(freeze!)空気を感じます。絵から少し離れて絵の冷気を感じたい1枚ですが、押すなへすなの状態ではそうもいきません。前にいた絵が好きそうな女の子達が「そんなに寄らないで、もっと離れて!って言いたいよね。画家じゃあるまいし、筆のあと見てどうすんの?だよ。離れて見たいよね。」と言ってたけど、実にその通りです。
で、ぼくは先年見たゴッホのやはり『星月夜』を思い出しました。同じ夜空に輝く星星を描いているけど印象は全然違う。ゴッホは昼間あれこれ思い悩み、汗水たらして働いて、つまり生きに生きて、そのご褒美としてこんな美しい星をみられるんだよ、そんな感じのする絵です。
でもこれは生活なんて関係ない、文字どおりfreezeした星月夜という感じです。そう思って改めて他の絵も見てみると、ムンクの絵はどれも動きがなく、その瞬間で凍っているような印象を受けます。
冗談みたいですが<frieze>じゃなくて<freeze>が正しかったんじゃないの、と言いたくなってきます。

後年、具体的な装飾の依頼を受けて描いた絵は明るいタッチのものに変わっていっていますが、やはりムンクの絵で見るべきものは、凍てついた不安な心で描かれた<生命のフリーズ>シリーズのものだと思いました。

2007年12月11日火曜日

国立新美術館のフェルメール展

行ってきました、国立新美術館の「牛乳を注ぐ女」とオランダ風俗画展。
土曜日の午後だったので入場制限がかかっているかな?と思いましたがそんなことはなく、でも二重、三重の人垣が数珠つなぎになっているという状況でした。
で、お目当てのフェルメール「牛乳を注ぐ女」。この作品のために一部屋があてがわれ前の2、3列は「はい、とまらないで、ゆっくり進んで!」のベルトコンベア方式。ゆっくりじっくり見たい人はベルトコンベアのロープ規制の後ろから眺めるという方式でした。ぼくはコンベアに2回乗り、その後規制線の後ろから結構長い間見ていました。小さい絵(45.5x41)ですが人の身長より少し高いぐらいのところにかけてあり、規制線から絵までの距離も5mくらいなので、規制線の前に陣取ればしっかり見ることができます。

ここに図像を直接アップするのは問題ありそうなので、恐れ入りますがアムステルダム国立美術館サイトに行って図像を確認してください。

この絵を見てまず思ったのは、うわっ、背後の壁がきれい!ということでした。美しい白!、その一番明るいところはほんのり青みをおびて、そして影を帯びるにしたがって徐々にグレーのグラデーションがかかっていく。この光り輝く白からグレーに向かういかにも自然な(人の手技と思えない)階調が実に美しい。
現代絵画ならこの壁だけで「白の階調」とか言って、絵として成立しそうです。フェルメールはこの白を描きたかったんじゃないか?、そう思いました。

でも、second thought、それにしては手前が込み入りすぎてないか?
まずこの堂々たる体躯のメイド。絵としてみればどう考えても彼女が主人公です。でもこの人、一心にミルクを注いでいるけど、どのような内心の声も聞こえてこない。
フェルメールは驚くほど複雑な人間の表情を描ける人です。ぼくが見たことのあるもう一枚のフェルメール「真珠の耳飾りの少女」、この少女の純粋にして蠱惑的な表情、こんな表情を他の誰が描けるでしょう。このメイドは主人公に見えるけれど、フェルメールはこの人に関心があったわけではない、そういうことになりそうです。

じゃ、この主人公で目につくものは何?
まずおでこと右腕にあたっている光、そして何よりも黄色の上衣と青のスカート(エプロン?)、この黄色と青の存在感です。上衣の黄色はこれまた光のあたりかたでグラデーションが念入りに描き込んである。そして青。これは図像ではそんなに感じないですが実際見ると、深みのある極めて発色の美しい青です。ラピスラズリという、宝石に匹敵する高価な材料から出来た青だそうです。これが光のあたり具合と襞の深浅で織りなされる巧緻精妙なグラデーションをなしている。この精妙さにはほとほとため息がでるばかりです。

ここではっと気づくことがあります。フェルメールは精細な写実をした画家ということになっているけれど、このメイドの衣服(特にスカート)は写実じゃないよね。このような形体のものは身につけていたかもしれないけれど、こんな上質な素材感のものをメイドが身にまとっていたはずがないと思うのです。写実とすればこれはフェルメールがこの絵のために特別にしつらえたものだし、そうでなければこの素材感はフェルメールが頭の中で作り上げたものではないか?

目はもう一つ手前に来ます。ミルクの入ったピッチャーとミルク。そしてポットとパン。どの描写もすごいと思うけれど、特にすごいのがパンです。これも図像ではわかりにくいですがパン粒一つ一つがけし粒ほどのザラメの宝石のようにキラキラ輝いているのです。舞台の上でスパンコールのドレスをまとった女性の衣装が照明の具合でキラキラ輝くように輝いているのです。ここまでくるとちょっと偏執狂的な感じもします。

まあこんなふうに見てきて、もういちど全体を見直してみるとこの絵はとてもヴァーチャルな感じがしませんか? ひとつひとつのモノは精巧に描きこんであるのに全体をみると非現実な感じがする。なぜだろう? いろいろ考えて思い当たることのひとつは光です。

画面構成上この絵の光は画面左上部の窓から入っている。メイドの体の明暗をみると光は左上方から来ています。しかし床にうっすら映ったメイドの影、そして右隅に置かれた四角い足温機の影をみると、光は画面の左手前から来ているように思える。
つまりモデルがいて、画家が絵を描いている、光はその画家の少し左手からモデルに向かって照射されているように見えるのです。画家の左手から照射された光がパンやポットを貫き、モデルを貫き、そして背景の壁を輝かせている、そのように見えるのです。

この絵は決して自然光で描かれたのではなく、現代であれば完璧に計算されたライティングによって撮られたスチール写真のように描かれている。そんな気がします。その「計算」とはどのようなものだったか? それはフェルメールが自分の技術、技を見せたいものに次々光を当てていった、まずパン、ポット、ミルクとピッチャー、メイドの衣服、そして壁、見せたいものを輝かせ、どうだい!すごいだろう!ってわけです。

フェルメールの時代、ライティングの装置などないでしょうから、このライティングを頭の中でやったとしたら本当にとんでもないヤツだと思います。

もうひとつ。この絵の遠近法の消失点はメイドの右手首と壁にかかったヤカン(?)の底との中間あたりにあります。視覚の上では空間はそこに収束するのですが、さきほど言った光(ライティング)で空間は画面右手奥に広がっているような感じもします。

遠近法の効果による通常の空間とは別に、光の効果による空間を生み出し、画面上に二重の複雑な空間を作り出そうとした。こんなことも想像してしまうのです。

この絵は世間に自分の技量をアピールし、新しい空間構成を試してみた、26才フェルメールの偉大なる野心作だった、これがこの絵をとくと眺めたぼくの結論です。

2007年11月9日金曜日

フランシス真悟さん


フランシス真悟さんは1969年にカリフォルニアで生まれました。お父様がアメリカ人、お母様が日本人です。現在横浜とニューヨークを拠点に活動されています。
先年、横浜のギャルリー・パリで個展があり、真吾さんのことを知りました。

個展は "Blue's Silence" と題され、全面がブルーで塗られた絵が何枚も展示してありました。
少しづつブルーの色合いは違っているのですが、何しろ画面が同じ色で塗ってあるだけなので、一見、何だこの絵はすぐ描けるんじゃないの?、と思ってしまいます。
でもその絵からは人の目をとらえて離さない魅力が放たれているのにすぐ気がつきます。
塗られているブルーがものすごくきれい、透明感があって輝いていて引き込まれそうなブルーなのです。

人は空でも海でも澄み切った青をみると、その色に引き込まれて目が離せなくなってしまいます。
そのような輝きがこの絵のブルーからも放たれています。
そしてよく見ると画面の下部1/10くらいのところに境界があり、その上下でわずかにブルーの色が変わっているのに気がつきます。

何、この境目は?と思うのですが、すぐ水平線や地平線のことに連想がおもむきます。
いろんな思いを抱えているとき、水平線や地平線を見たくなり、その思いを遠くのその届かない境界に置いておきたくなる、そんな気分になることはないでしょうか。

そんな真悟さんの展覧会が、グループ展ですが横浜市民ギャラリーあざみ野で開かれています(10日まで)。
先週日曜日にダンスコラボレーションがあり、会場で真悟さんの絵をイメージして相良ゆみさんがダンスパフォーマンスをなさいました。
ダンスは残念なことに見れなかったのですが、その後の真悟さんと相良さんのギャラリートークを聞くことが出来ました。

その中で相良さんがダンスをしてどんな印象だったがを聞かれ、宇宙を一周して帰ってきたよう、と答えられていたのがとても印象的でした。

真悟さんの絵を見ていると、自然に心がその中に入っていき、忘れていた記憶のかけらが出てきたり、どこかにしまってしまいたい思いをその中にそっと置いてきたり、自分という宇宙をしばらくさまよって、そしてまた地上の現実に帰ってこれる、そんな体験ができるのです。

ここの写真はギャラリートークの様子と展示されている作品の前の真悟さんです。
そうそう、ブルーの作品はすべて "Blue's Silence" という題で統一されていますが、それぞれに異なった副題がついています。
彼がしゃべっている後ろの作品は "still silence"、立っている横の作品は "memory of my heart's dream" というのですが、どの作品の副題もとてもチャーミングです。
聞けば絵を描く前は詩をかくことに没頭していたとのこと。
この副題からはそんな感性をストレートに感じることができます。

真悟さんのインタビュー番組では、自分の考えが率直に語られていて興味深いです。