2007年12月11日火曜日

国立新美術館のフェルメール展

行ってきました、国立新美術館の「牛乳を注ぐ女」とオランダ風俗画展。
土曜日の午後だったので入場制限がかかっているかな?と思いましたがそんなことはなく、でも二重、三重の人垣が数珠つなぎになっているという状況でした。
で、お目当てのフェルメール「牛乳を注ぐ女」。この作品のために一部屋があてがわれ前の2、3列は「はい、とまらないで、ゆっくり進んで!」のベルトコンベア方式。ゆっくりじっくり見たい人はベルトコンベアのロープ規制の後ろから眺めるという方式でした。ぼくはコンベアに2回乗り、その後規制線の後ろから結構長い間見ていました。小さい絵(45.5x41)ですが人の身長より少し高いぐらいのところにかけてあり、規制線から絵までの距離も5mくらいなので、規制線の前に陣取ればしっかり見ることができます。

ここに図像を直接アップするのは問題ありそうなので、恐れ入りますがアムステルダム国立美術館サイトに行って図像を確認してください。

この絵を見てまず思ったのは、うわっ、背後の壁がきれい!ということでした。美しい白!、その一番明るいところはほんのり青みをおびて、そして影を帯びるにしたがって徐々にグレーのグラデーションがかかっていく。この光り輝く白からグレーに向かういかにも自然な(人の手技と思えない)階調が実に美しい。
現代絵画ならこの壁だけで「白の階調」とか言って、絵として成立しそうです。フェルメールはこの白を描きたかったんじゃないか?、そう思いました。

でも、second thought、それにしては手前が込み入りすぎてないか?
まずこの堂々たる体躯のメイド。絵としてみればどう考えても彼女が主人公です。でもこの人、一心にミルクを注いでいるけど、どのような内心の声も聞こえてこない。
フェルメールは驚くほど複雑な人間の表情を描ける人です。ぼくが見たことのあるもう一枚のフェルメール「真珠の耳飾りの少女」、この少女の純粋にして蠱惑的な表情、こんな表情を他の誰が描けるでしょう。このメイドは主人公に見えるけれど、フェルメールはこの人に関心があったわけではない、そういうことになりそうです。

じゃ、この主人公で目につくものは何?
まずおでこと右腕にあたっている光、そして何よりも黄色の上衣と青のスカート(エプロン?)、この黄色と青の存在感です。上衣の黄色はこれまた光のあたりかたでグラデーションが念入りに描き込んである。そして青。これは図像ではそんなに感じないですが実際見ると、深みのある極めて発色の美しい青です。ラピスラズリという、宝石に匹敵する高価な材料から出来た青だそうです。これが光のあたり具合と襞の深浅で織りなされる巧緻精妙なグラデーションをなしている。この精妙さにはほとほとため息がでるばかりです。

ここではっと気づくことがあります。フェルメールは精細な写実をした画家ということになっているけれど、このメイドの衣服(特にスカート)は写実じゃないよね。このような形体のものは身につけていたかもしれないけれど、こんな上質な素材感のものをメイドが身にまとっていたはずがないと思うのです。写実とすればこれはフェルメールがこの絵のために特別にしつらえたものだし、そうでなければこの素材感はフェルメールが頭の中で作り上げたものではないか?

目はもう一つ手前に来ます。ミルクの入ったピッチャーとミルク。そしてポットとパン。どの描写もすごいと思うけれど、特にすごいのがパンです。これも図像ではわかりにくいですがパン粒一つ一つがけし粒ほどのザラメの宝石のようにキラキラ輝いているのです。舞台の上でスパンコールのドレスをまとった女性の衣装が照明の具合でキラキラ輝くように輝いているのです。ここまでくるとちょっと偏執狂的な感じもします。

まあこんなふうに見てきて、もういちど全体を見直してみるとこの絵はとてもヴァーチャルな感じがしませんか? ひとつひとつのモノは精巧に描きこんであるのに全体をみると非現実な感じがする。なぜだろう? いろいろ考えて思い当たることのひとつは光です。

画面構成上この絵の光は画面左上部の窓から入っている。メイドの体の明暗をみると光は左上方から来ています。しかし床にうっすら映ったメイドの影、そして右隅に置かれた四角い足温機の影をみると、光は画面の左手前から来ているように思える。
つまりモデルがいて、画家が絵を描いている、光はその画家の少し左手からモデルに向かって照射されているように見えるのです。画家の左手から照射された光がパンやポットを貫き、モデルを貫き、そして背景の壁を輝かせている、そのように見えるのです。

この絵は決して自然光で描かれたのではなく、現代であれば完璧に計算されたライティングによって撮られたスチール写真のように描かれている。そんな気がします。その「計算」とはどのようなものだったか? それはフェルメールが自分の技術、技を見せたいものに次々光を当てていった、まずパン、ポット、ミルクとピッチャー、メイドの衣服、そして壁、見せたいものを輝かせ、どうだい!すごいだろう!ってわけです。

フェルメールの時代、ライティングの装置などないでしょうから、このライティングを頭の中でやったとしたら本当にとんでもないヤツだと思います。

もうひとつ。この絵の遠近法の消失点はメイドの右手首と壁にかかったヤカン(?)の底との中間あたりにあります。視覚の上では空間はそこに収束するのですが、さきほど言った光(ライティング)で空間は画面右手奥に広がっているような感じもします。

遠近法の効果による通常の空間とは別に、光の効果による空間を生み出し、画面上に二重の複雑な空間を作り出そうとした。こんなことも想像してしまうのです。

この絵は世間に自分の技量をアピールし、新しい空間構成を試してみた、26才フェルメールの偉大なる野心作だった、これがこの絵をとくと眺めたぼくの結論です。

2007年11月9日金曜日

フランシス真悟さん


フランシス真悟さんは1969年にカリフォルニアで生まれました。お父様がアメリカ人、お母様が日本人です。現在横浜とニューヨークを拠点に活動されています。
先年、横浜のギャルリー・パリで個展があり、真吾さんのことを知りました。

個展は "Blue's Silence" と題され、全面がブルーで塗られた絵が何枚も展示してありました。
少しづつブルーの色合いは違っているのですが、何しろ画面が同じ色で塗ってあるだけなので、一見、何だこの絵はすぐ描けるんじゃないの?、と思ってしまいます。
でもその絵からは人の目をとらえて離さない魅力が放たれているのにすぐ気がつきます。
塗られているブルーがものすごくきれい、透明感があって輝いていて引き込まれそうなブルーなのです。

人は空でも海でも澄み切った青をみると、その色に引き込まれて目が離せなくなってしまいます。
そのような輝きがこの絵のブルーからも放たれています。
そしてよく見ると画面の下部1/10くらいのところに境界があり、その上下でわずかにブルーの色が変わっているのに気がつきます。

何、この境目は?と思うのですが、すぐ水平線や地平線のことに連想がおもむきます。
いろんな思いを抱えているとき、水平線や地平線を見たくなり、その思いを遠くのその届かない境界に置いておきたくなる、そんな気分になることはないでしょうか。

そんな真悟さんの展覧会が、グループ展ですが横浜市民ギャラリーあざみ野で開かれています(10日まで)。
先週日曜日にダンスコラボレーションがあり、会場で真悟さんの絵をイメージして相良ゆみさんがダンスパフォーマンスをなさいました。
ダンスは残念なことに見れなかったのですが、その後の真悟さんと相良さんのギャラリートークを聞くことが出来ました。

その中で相良さんがダンスをしてどんな印象だったがを聞かれ、宇宙を一周して帰ってきたよう、と答えられていたのがとても印象的でした。

真悟さんの絵を見ていると、自然に心がその中に入っていき、忘れていた記憶のかけらが出てきたり、どこかにしまってしまいたい思いをその中にそっと置いてきたり、自分という宇宙をしばらくさまよって、そしてまた地上の現実に帰ってこれる、そんな体験ができるのです。

ここの写真はギャラリートークの様子と展示されている作品の前の真悟さんです。
そうそう、ブルーの作品はすべて "Blue's Silence" という題で統一されていますが、それぞれに異なった副題がついています。
彼がしゃべっている後ろの作品は "still silence"、立っている横の作品は "memory of my heart's dream" というのですが、どの作品の副題もとてもチャーミングです。
聞けば絵を描く前は詩をかくことに没頭していたとのこと。
この副題からはそんな感性をストレートに感じることができます。

真悟さんのインタビュー番組では、自分の考えが率直に語られていて興味深いです。

2007年11月4日日曜日

北京スケッチ旅行


「蔡國華さんと行く北京スケッチ旅行」という企画で10月22日~26日の間北京に行ってきました。
今回はトラベルプランという旅行会社の企画で蔡さんが先生になり、同好の方々十数人が北京のあちこちをスケッチしてまわるという旅でした。
とはいえぼくを除いてみなさんキャリア十分、ぼくはあまりの拙さに指導の余地なくほったかされたので、結構北京の街をゆっくり見れました。
北京はオリンピックを前にいたるところが工事中、土ぼこりが舞っている感じですが、昔ながらの胡同界隈ではしゃべくったりブラブラしている人が一杯いるし、公園ではトランプとかゲームをしている人多数。
特に中高年層がワイガヤ寄り集まっていろんなことに打ち興じているのが印象的です。みんな生活を楽しんでいて、見ているだけでホクホク感があるのが日本とちょっと違うかな。
長城とか故宮を見るとスケールが全然違うので、中国の大きさ、歴史の深さをヒシヒシ感じますけどね。
そんな風景を写真でちょっと紹介してみます。
最初は長城で蔡さんと撮った写真、次は天壇公園でトランプに興じる人たち、最後に中山公園の太極拳グループです。こんなグループがたくさんあってそれぞれ自分達のスタイルを競いあっています。ちょっと一緒に入っちゃいました。


このほかの写真はこちら

2007年10月8日月曜日

蔡國華さんの個展が開かれます

突然ですが蔡國華さんの個展のご案内です。
10月10日(水)~20日(土)の日程で京橋の金井画廊であります。

金井画廊のHP 

このHPの「蔡國華作品集」にある作品も個展に出品されるそうです。
人物画、風景画、静物、JAZZのシリーズなど見どころ満載の絵が
揃っていますので、近くにお立ち寄りの際は是非ご覧になって
みてください。

蔡國華さんとの出会い

今日はぼくがARTを身近なものと感じるようになったきっかけである
蔡國華さんとの出会いについて書いてみたいと思います。

随分以前から美術館に通って絵をみたり有名画家の画集をパラパラめくったりする
ことは好きだったのですが、それ以上進んで何かするということはありませんでした。

1997年5月に地元の横浜美術館で開かれた「ポンペイ」展を観覧に行ったのですが
その会場を出たところに美術館ギャラリーがあり「蔡國華展開催中」と立看が
出ていました。

ぼくはこの看板をみて作家の名前を当時すでに高名であった「蔡國強」氏と勘違い
してしまい、ええっ、こんなところで蔡國強さんの展覧会をするのかぁ?、
火山に火薬かぁ?とか いぶかしく思いながら、ともかくこれは見なければと
ギャラリーに足を踏み入れました。

頭から硝煙くさいインスタレーションだとばかり思っていたぼくの目の前に飛び込んで
きたのは、畳一畳もあるほどの大きな合掌した手の肖像でした。この大きな手の肖像が 4枚正面に並んでいます。
蔡國華さんのHPにこの会場の様子が掲載されているので、まずこれをご覧になってみて ください。

 このページの一番下にある4枚の絵ですが、これを見た途端この手の圧倒的な迫力に目が釘付けに なってしまいました。
しばらく経ってこれはどうも「蔡國強」とはちがうゾと改めて作家名を見直し、そこに「蔡國華」と いう名前を発見したのでした。
まったく聞いたことのない名前でしたが、合掌した手の肖像はいつまでもいつまでも見ていたいと 思わせる力を持っていました。

この4枚はどれも年老いた皺くちゃの手です。
でもそれぞれの手の皺は全部違います。 そしてどの手の1本の皺もないがしろされず丁寧に丁寧に描き込まれています。
それを見ているとこの皺の1本1本が、その持ち主の人生を築いてきたそのものであることが 感じられ、文字通り「肖像画」だと思えるのです。
長い時間をかけてこのような皺を刻んできたそれぞれの人生に対して、かぎりない尊敬と敬愛の 念がこめられていることがこの絵から伝わってくるのです。
一人一人の長い人生の中で数限りなく起こったささいなことでも、その人にとってはやはり意味の あることなのです。

そしてその皺に刻まれた手が合掌している。それを大画面で描ききっている。
そこに人間の生に対する深い尊厳の思いが込められていると思いました。
会場にはこの他にも老人を描いた絵がありましたが、どの絵も対象への尊敬と愛情に溢れて いました。

人間が老いていくことをそのように描いた絵に今まで出会ったことはなかったので ぼくはそのことに感動し、その画家がどんな画家か知らないまま、今までそんなことを したことはなかったのですが芳名録に名をしるし会場を後にしました。
この後起こったことは次回しるそうとおもいます。

蔡國華さんのHP
ご参考に蔡國強氏のHP

2007年10月2日火曜日

はじめまして

こんにちは、現在52才の男性です。
50才を過ぎると人生これから後半戦だなぁ、と感じます。
ぼくは会社勤め(金融関係)をしていたので、自分をいかに会社に適合させていくか、
会社の目標実現のために自分が成すべきことをいかに成し遂げていくか、そういうことに自分の力を集中してきたのが人生の前半戦でした。
今春思うところあって会社をやめ、これからは自分が自分自身に還っていく道のりにしたいと考えています。

ぼくは自分自身を表現できる芸術的な才はないのですが、今までの経験から優れたARTに触れることは自分が自分に還っていくとてもよい方法の一つになると確信しています。
優れたARTは作者が自身の全霊を傾けて自分を表現したものですから、作品そのものから大きなエネルギーが放射されています。作者の考えていることは解らなくともエネルギーはやはり感じるのです。そうすると不思議なものでこのエネルギーに当てられるかのように
作品に対して自分自身で対話を始めるのです。

一体何これ?何かわからんなぁ?でもパワーすごいね!そんなことから始まって、対話は様々に展開します。そんな対話を繰り返していると自分がどんなことを好きなのか判ったり、思ってもなかった自分を発見することもあります。
そのうちお気に入りの作品や作家が出来てきます。嵩じてお気に入りの作品はいつも手元に置いておきたくなり、エイ、ヤァ!の思いで作品を買ってしまったりします。
でもそうして手に入れた作品と時々にする対話はいつも新鮮で飽きることがありません。
その作品との対話することで生活をリフレッシュでき、考えを深めたり視野を広げるきっかけになってくれたりします。

このブログではそんなARTと自分とのかかわりを中心に書いていきたいなと思っています。
そしてARTに興味を持たれている方といろいろ意見交換できれば幸いです。
よろしくお願いします。